2009-06-05 第171回国会 衆議院 外務委員会 第13号
これに基づき、その年の十月二日の閣議で鳩山総理は訪ソを決定し、七日に日本を立ち、鳩山首相を首席とする日本全権団、ここには河野一郎大臣も参加されておりました。この全権団はソ連側と国交正常化交渉を行いまして、十九日に日ソ共同宣言が発出されたのでございます。
これに基づき、その年の十月二日の閣議で鳩山総理は訪ソを決定し、七日に日本を立ち、鳩山首相を首席とする日本全権団、ここには河野一郎大臣も参加されておりました。この全権団はソ連側と国交正常化交渉を行いまして、十九日に日ソ共同宣言が発出されたのでございます。
○宮澤国務大臣 日米の平和条約ができましたのは昭和二十六年の九月でございますが、私も全権団の随員として参っておりました。講和条約が調印された同じ日に、吉田首相が一人だけ別のところで日米安保条約というものを調印せられたわけでございます。
ですから、後でサンフランシスコ平和条約が——またこれくしき因縁でございますが、そのときの全権団の中に我々の母親、中山マサが参加させてもらった印象が非常にあります。この間、亡くなりました遺品の中、それを整理していましたら、そのときのサンフランシスコのベイブリッジの写真と、それから講和条約で星島さんとか吉田さんが座っていらっしゃるその前の席に座っている写真が出てまいりました。
苫米地さんが全権団に行くことがいいか悪いか大激論になった、こう承っております。ある評論家の当時の文章を私は拝見をいたしました。中曽根さん、御記憶ありますか。
そこで、苫米地さんを全権団の中へ入れるか入れないかという大問題があって、安保条約については、これは全権団といえども留保しておけ、中身がわかって納得したらこれはいいけれども、中身がわからぬうちは我々は、苫米地さん、全権として賛成すべきではない、判こを押すべきではないというのが当時の改進党の態度でありました。そして現地に行きましてからは、吉田さんは自分でサインをしておいでになった。
したがって、平和条約については日本全権団が皆調印した。しかしながら、安保条約については反対も強い。そして、これは恐らく中身はその土壇場まで、あなたがおっしゃったように、知らされていないのだから、したがって、こんなものには責任を持てぬということで全権団も調印しない。それで、吉田さん一人がこれは調印されたという経過になっておると思うのです。
○斉藤(正)委員 この際、内のりから外のりに船舶のトン数の測度の方法が抜本的に変わったわけでございまして、関係者ではある程度の意見があったと思うわけでありますけれども、日本の全権団の発言によって条約の内容が変わったとか、あるいは、変わらないにしても確認をされたとかいうような面はあったのでございましょうか。
○斉藤(正)委員 そうすると、代表は、当時ロンドンに駐在していた公使、これを補佐する意味で当時の船舶局長、さらに業界といいますか、その代表も含め、全権団を組織し、各界各層関係者の意見をひっ提げて乗り込んだというように解釈してよろしいか。
当時の全権団というのはどういう方々であったのですか。
次に、昭和二十六年夏、今日わが国平和の基礎たるサンフランシスコ平和体制確立のため、でき得る限り各党より全権を出していただくため、心血を注ぎ、先輩、同僚各位の心からなる御協力を得、いわゆる挙国全権団構成に成功したことは、わが生涯における鮮烈なる思い出でございます。
だけれども、条約討議の基礎となったアメリカの海軍将官会議の報告書とか、あるいは、米国全権団専門委員会報告書、いずれもこれは催涙ガスを含むものとの趣旨を明記されておるのですね。まあ、あっちこっち混迷があったんでしょう。古いことを言ってもしかたがないが、そういうことのようです。そこで、毒ガスについて言えば、議定書の対象になるこれは毒性のあるというもの、これは効果が非常に強いということが一つ。
なお、これも蛇足かと思いますが、一言つけ加えますと、たまたま昨日の閣議で決定をしたことではございますが、やはり十八日にこの事件を知るより前に実は決定を自主的にしておったわけでございますが、日本としては川喜田博士というような世界的なこの方面の権威者も持っておりますので、川喜田博士に軍縮全権団に途中から追加参加してもらうことになり、昨日閣議決定をいたしましたが、こういうようなことも、十八日の事件が起こるよりも
そういう点におきまして、わがほうにおいてもこれから十分さらに具体的、科学的な研究を進めなければならねと思いますが、そう申しておりながらこういうことを申すのもいかがかと思いますけれども、たまたま本日付でなったのでございますが、こういう方面に日本としても世界的な権威者もおられるので、かねがね内諾は得てあったわけですが、千葉大学の前学長の川喜田博士に全権団に加わってもらうことに本日発令をいたしたわけでございます
あなたの恩人吉田元首相が、サンフランシスコ平和会議において、池田、星島、一萬田君等の全権団全員で講和条約には調印されながら、安保条約のみは吉田茂ただ一人の責任において単独調印した事実は、あなたもよく御存じと存じます。吉田氏は、安保条約にこの危険な面もあることを洞察して、歴史に対して責任を負うたことと私は考えておるのであります。
しかも、二十日の日には、椎名外務大臣と在日韓国代表部大使が協議をして、約三十分、日韓条約批准書交換の日取りなどについて話し合いをして、ソウルに派遣する全権団は外相を含めた四、五人とし、別に国会議員約十名による親善使節団を送りたいということを発表しているのであります。
そして当時の全権団を御参考までに申し上げますから相澤君お聞きください。
○国務大臣(椎名悦三郎君) どうも、ふしぎな御批判を受けるものと思いますが、とにかく、正式な調印式を済まして、韓国の全権団は非常に喜び勇んで帰国した。完全に合意に達しましたから、合意議事録をもってあいまいな点を補足説明する必要はなかった。だから合意議事録はないのであります。それほど完全に合意をしたのであります。
そこでこの今度の会議の全権団に出しました訓令のきわめて根本的な考え方を申し上げますと、一つは、われわれとしてはあくまでガットというものを尊重していきたい、ガットはいろいろ金持ちのクラブであるとか、あるいは事態に即応しないとかという非難もございますけれども、ガット自身も勉強して、そうしてあるいは機構の改革あるいは仕組みを変えたり、あるいはまた後進国問題を特に取り上げていろいろ議論して、いわゆるアクションプログラム
○国務大臣(小坂善太郎君) 日比通商航海条約につきましては、この条約を作るについて双方から全権団が出たわけであります。フィリピン側の全権団は、当時の与党のナショナリスタ党の人もおりましたが、野党であった自由党の人もおったわけでございます。双方の意見を代表しておる。こういうことで、いわば超党派的な基礎の上に作られた、こういうふうに私どもは考えておるわけでございます。
千島の問題はさておきまして、この四つの島につきましては、鳩山内閣時代、日ソ共同宣言を作りまする際に、全権団から非常にさまざまの日本帰属についての強い要請を数々行なってきました。結果的には、共同宣言にございますように、その他の問題については継続審議、こういうことになっております。
ソビエトの外務大臣並びにソビエトの全権団各位に、重光全権が声明を発表された中にこう言っているのです。重光さんのお話は、ソビエト側はさきにロンドン交渉において領土の問題は決定済みであると主張された。なるほどポツダム宣言は、日本に帰属すべき島嶼の範囲は連合国側が決定すると書いてあります。
従いまして全権団は国後、択捉がわが国固有の領土である事実について会議の注意を喚起するために問題を提起し、これを将来に残したわけでございます。
その際その解釈について一言言ったのは日本全権団だけでございますが、日本全権団はこの国後、択捉は日本固有の領土であるということをはっきりそこで言っておるのであります。
私は、ちょうど十年前の昭和二十六年九月、サンフランシスコ講和会議に全権団の一人として参加するの光栄をにないました。そのとき調印された対日平和条約は、その理念において、その寛大さにおいて、当時の国際環境の下で望み得る最上のものでありました。その後わが国は、よく平和を確保し、友邦との間に経済と文化の活発なる交流を営み、国民経済と国民生活はめざましい発展と向上を遂げることができました。
(拍手) 私は、ちょうど十年前の昭和二十六年九月、サンフランシスコ講和会議に、全権団の一人として参加するの光栄をにないました。そのとき調印された対日平和条約は、その理念において、その寛大さにおいて、当時の国際環境のもとで望み得る最上のものでありました。